自己犠牲の精神から分かる心理とはどのようなものなのでしょうか?
自己犠牲というと聞こえはいいですが、「実情」はどのようなものなのでしょうか?
私たちの身のまわりには自己犠牲をする人たちがいます。
あまりに過度に自己犠牲をするなら、
[list style = “star”]
- 「なぜそこまでする?」
- 「いい人ぶってる?」
- 「気持ちいいのかな?」
[/list]
などのように感じるのではないでしょうか。
実は、私の知り合いにも「自己犠牲をする人」がいて、あまりに「過度」だと思ったことがあるために印象に残っています。
このように「自己犠牲がすぎる人」はあなたの身のまわりでも意外とたくさんいるはずです。
ただ、自己犠牲をしている人もそれを見ている人も「ある種の違和感」を感じるのではないでしょうか。
あなたが自己犠牲をしてしまうなら、「都合のいいヤツ」として周りから利用されるかもしれません。
そこで、今回は自己犠牲をする人の心理について詳しくご紹介していきたいと思います。
自己犠牲の精神から分かる心理
自己犠牲をする人は、自分を犠牲にすることが本当に周りのためになると本気で思っています。
でも、相手の気持ちをこころみることなく実行してしまうため、周りからすると「自己中心的」だと思われがちです。
なぜなら、自分の中だけで完結して行動をするからです。
善意でやってあげてるんだから「正しいに決まっている」という思い込みです。
相手からすると、自己犠牲してくれているから「本当のことは言うと悪いかもなぁ」と思うのではないでしょうか。
つまり、「的を外しているし何も分かっていないんじゃないのか」と思っていても言えない状況になるのです。
私の知り合いにも、「自己犠牲」をする人がいます。
彼がひとりでドライブをしていたときに、困っている人がいたらしいのです。
どうやら、困っている人は「タイヤ」に問題があって立ち往生していたらしいのです。
それを見かけた彼は、自分がスペアで持っている「タイヤ」をあげたと言っていたのです。
私だったら、知っているカーショップなどに「ここに来てくれ」と電話をかけるくらいはしたかもしれません。
もっとも、立ち往生している人がすでに電話くらいならしているでしょうが。笑
しかし、自分が持っているスペアはあげなかったでしょう。ましてや「知らない人」です。
気になったので、彼に「どうしてスペアあげたの?」と聞いてみたことがあります。
彼は、「いいことをしたら、いいことがあるかなと思った」と言っていました。
私は、「自分にいいことがあるのを期待して、他人に施しをした」というふうに聞こえました。
根本で「他人のため」というより、「自分のため」というものが先行しているように聞こえたということです。
だから、自己犠牲は気持ちいいようになるとは思いますが、相手のためになるとは限らないということです。
ただ、タイヤのスペアをくれた人は助かったでしょうが。
自己犠牲な性格になる原因とは?
では、このような自己犠牲が生まれる原因はどのようなものなのでしょうか?
自己犠牲をするようになるのは、
[list style = “star”]
- 「〜するべきだ」
- 「〜であるべきだ」
[/list]
のようなものを物分りがいいときに、吸収したのではないかということです。
上記の2つのようなことを満たすことによって、周りの人からも褒められます。
学校や家などで「他人の期待」に答えようとするメンタリティが芽生えるということでもあります。
褒められたり、認められるためには「どうあるべきなのか、何をするべきなのか」ということを無意識のうちにやってしまうのです。
「自分に基準」があるのではなく、「他人に基準」があるということです。
自己犠牲をする人は「真面目な人」が多いと思います。つまり、「努力家」ということです。
主体性がないために断れなかったり、「自分の意見」が言えないことも特徴だと思います。私の知り合いもとても「真面目」です。
自分の対応できる範囲でなら問題はないのですが、どうしても「多くのもの」を抱え込みがちになります。
たとえば、
[list style = “close”]
- 「こんなに頑張ってるのに」
- 「誰も分かってくれない」
- 「ストレスがたまる」
[/list]
などのことが考えられるでしょう。下手すると「心の病」となって通院することにもなるでしょう。
そして、自分がこれだけやっているんだから「他人もこれだけやるべきだ」と他人に押しつけることにもなりかねません。
さらに、他人と「良好な関係」を結ぶことができないのではないでしょうか。
なぜなら、自己犠牲をする人からすると「自己犠牲をしない人」を許すことができないからです。ある種の「村八分」です。
主体性がないということは前述しましたが、主体性がないということは「自尊心が低い」ということでもあります。
このように自己犠牲をするのは表面的にはいいように思えますが、実情は怪しいのではないでしょうか。